2011年2月アーカイブ

ワンフレーズの最後まで気をしっかりと持たないと、
危うく違うことを言いそうになる。を通り越して、
全然違うことを言っているということが、最近、あった。

母は最近、私の中学時代のクラスメートのF君のお母さんと
電話をしたそうで、そのF君のお母さんの話から、
F君の話にもなり、あれ?じゃあ、F君のお父さんは何してるの?
と聞くと、「官庁でしょ」と言うので、
私は「えっ?官庁って、かすみがうら?」と聞いてしまう。
霞ヶ浦は、茨城県南部に位置する日本で二番目に大きい湖の名前だ。
ちなみにキロワットの動画で角ちゃんと踊ったのは、
霞ヶ浦運動公園。

この前、かほりさんの写真展に遊びに行った時も、
アボカドの話になって、アボカドの素晴らしさを語ろうとして、
「アボカドは、森のたまごですからね」と言ってしまう。
森のたまごは、卵だ。アボカドなんかじゃない。
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一週間迷った挙句、岩波文庫のオクタビオ・パス「弓と竪琴」を買う。
大学3年次の夏休みのレポートでも、彼がシュルレアリスムについて書いた本を
取り上げたので、そもそも知らない人ではなかった。
ただ、彼の代表作である「弓と竪琴」について、ずっと私は詩集だと思っていた。
この人は弓と竪琴でもって、闘うのだ、と。
そのイメージの描く、甘美な曲線がとても素敵なのだろうと予想していた。
けれど、実際は、壮大な詩論で、岩波文庫でありながら、
2センチ近い分厚さを持っていたので、躊躇してしまう。
私は今、壮大な詩論を読むような気分ではない、と。
けれど、角ちゃんとの朗読会のためのダロウェイ夫人を買いに行った時に、
私は見てしまったのだ。
レジカウンターの後ろに位置した棚に、取り置きされた「弓と竪琴」を。
この本がちょうど発売されたばかりであるということ、そして、
取り置きされる存在としての「弓と竪琴」を目にしたら、
とても気になってしまい、私は手に取り、よく立ち読みをしようという気持ちに至る。
そこには、こう書いてあった。

ポエジーは認識、救済、力、放棄である。
世界を変えうる作用としての詩的行為は、本質的に革命的なものであり、
また、精神的運動なるがゆえに内的解放の一方法でもある。
ポエジーはこの世界を啓示し、さらにもうひとつの世界を創造する。

読み進めていくと、前書きにこう書いてある。

わたしは詩を書き始めて以来、それがなすに値することであろうか、
と自問してきた―人生からポエジーを引き出すより、
人生をポエジーに変える方がよいのではなかろうか?
そしてポエジーは、詩(ポエマ)の創造よりはむしろ、詩的瞬間の創造を、
それ本来の目的として持つことはできないのだろうか?

これについて、私が今、全くその通りだと同意するかどうかは別にして、
とても素敵な文章だ、と。というメールを角ちゃんに送って、
私はパスの顔写真まで添付したのだけれど、
本当は弓のような、竪琴のような、甘美な曲線を描いている写真を
添付するべきだったかもしれない。と思う。
例えば、井之頭自然文化園で撮ってきた水槽の水草のような。
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写真は今始まりつつある「朗読会」を催したカフェにて。
左よりコーヒーカップ、砂糖入れ、水、紙ナプキンフォルダー。

先週は行き違い週間にもかかわらず、角ちゃんと二夜連続会う。
私は角ちゃんの代わりに出勤するバイトへ行っていた。
金曜に残念な未来の希望の残り滓みたいな話をし、
翌朝、とても暗い気持ちで目覚めたものの、
一週間私が書き溜めたメモを引き出しから発見した角ちゃんが、
今夜、初台へ行きたく思うとノリノリでメールをくれたので、
急遽、閉館間際に滑り込みで、裕さんの植物や誕生日会を見てきた。
とてつもなく長い岩の風景の壁画も隣接されていて、
常設展をスキップした私たちは反対方向から見ていたのだが、
そのことに気づいたのが端まで行ったときで、端まで行って、もしや、
ここが始まりなのではないかと気づいたのである。
でも、どちらが始まりであったとしても、その壁画は
360°以上の岩山のパノラマで、戻って来ても、戻って来ても、
まだ風景が更新されていくような感覚がした。
始めから再生しても、後ろから再生しても、同じような音楽が作れるのではないか
とピンと来て、そっちの方の話になり、昨日、PDのインストールをする。
結局、全然、全く分からないのだけれども、
そういうことから始まって、徐々に分かってくるものがあり、
とても楽しい。焦らずに、情報収集し、再び始まるであろう青春の
1ページにまず、「1」と記入するところから始める。
時折、私は猛烈にyoutubeで音楽を検索する羽目になる。
その一連の連想ゲームは、Silmarilsの曲から始まった。
tant que par l'ecnomieという歌で、97年に彗星のごとくやって来て、
J-WAVEのカウントダウン番組で毎週50位くらいでくすぶっていのに、
その哀愁のイントロから鮮烈な転換でロックするというところに、
フランスっぽさを感じていた。
そんなSilmarilsも数年後に、こんな歌を歌うことになる。
あの悪ガキっぽいサウンドはどこかへ消え、けだるい夏は
ベガスに乗り込み的なノリである。
こんなSilmarilsを誰が望んでいたのだろうと思ったけれど、
このノリもまた、私は嫌いじゃない。
そうそう。嫌いじゃないと言えば、
あのかっこ良くない音楽が好きだったと思い出した。
映画「猫が行方不明」の予告で流れている曲だ。
70才くらいのおばあちゃんがMerde!と悪態をついているのが、
チャーミングだなと思っていて、その後にぶわっと鳴り出す、
あまりかっこ良くない音楽。
その音楽を担当しているのが、Ceux qui marchent deboutという
フランスのグループ。Femaというタイトルの軽快なナンバーが、
見つけた中では一番良かった。
そういえば、セドリック・クラピッシュの映画は何本か見たけれど、
サウンドトラックがいつも素敵だった。
スパニッシュ・アパートメントのこんな曲もまた、
哀愁が深い。
スパニッシュと言えば、アンダルシアの彦星を先日、公開した。
危なっかしさの中に、謎の安定感があり、最後にはオチもついている。
と角ちゃんがメールで言っていた。私もそう思う。
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あいこぱ。フランス文学研究から大いなる逃亡後、あっちへふらふらこっちへふらふら。趣味は読書と映画鑑賞。 写真も撮ります。最近はジョギングも始めました。二十代後半にして、内なるアウトドア志向に転換。2009年無二の知己「角ちゃん」とKWネットワーク始動。 月刊川にて大好評更新中。連絡はmail:aikopa@gmail.comまでお願いいたします。

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