2012年2月アーカイブ
ファジル・サイのピアノに身を委ねすぎたら、こちら側に帰って来れなくなっていた。
絲山秋子さんの小説も二冊、するすると読んでしまい、
愛すべき人々が私の目の前で、哲学を込めたチョコレートを食べている姿を
見られなかったことで、どこかしら居心地悪く、感じていた。
やさしさを与えた人から、直接帰ってくることはほとんどない。
いつもいつも、別の方からやって来る。
励ましてくれるのは、いつも別の人。そういうことなのか。
この一週間、明確につらかったわけではないのに、
ぎゅうぎゅうと私を圧迫していた感情が、少しずつほどけていったのは、
その別の人たちが励ましてくれたからなのだ。
宗左近の「炎える母」と、ぐるり屋さんの時計の話と、それから、
吉祥寺の文房具屋さんで、在庫のないクルトガ(シャープペン)を、
吉祥寺中のお店に問い合わせてくれた若い女性の店員さん。
少しずつ、私は日常の断片をコラージュにして、物語を紡いでいくための、断片を今、
撮り、定期的に小品を出す、それは少なくとも私のためにする行為として、
小品をこしらえることを始めよう、まさしく始める時なのだと思いに至る。
そういう一週間。写真は江ノ島で買ってきた貝殻と、宗左近の詩集とお気に入りのマフラー。
そこに浜辺があるという理由だけで裸足になった。
今まで幾度となく裸足で歩いた浜辺について、思い出した。
一人でしかないと同時に、もう一人ではない。
内包する脆弱性を一つ一つ、形にしていく人生なのだ、と。
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