思っていることをまとめて、話そうとするも、まとまらず、
ふがふがと、もごもごと心の中に残っていて、それはやはり、私の中で起こっている、
重要なことに違いないので、忘れないうちに記しておく。
火曜にスポーツクラブへ行き、数日サボってしまったので、爽やかに走る。
サウナで尻餅をつき、体の右半分の節々にあざをこしらえる。
尻が痛いと思いながら、本屋へ行き、やはり、本を読まなくては、
バランス良く読むことが大事なのだ、でも、どの本を読みたいか、うんうんうんと悩み、
最近読んでいない類の本を探す。
で、手に取ったのがジャック・デリダの『絵葉書Ⅰ』。
3センチほどある厚み、重み、本としての存在感、
冒頭はこんな言葉で始まる。

  「そう、君の言うとおりだった、私たちは、これ以降、今日、今、
  一瞬ごとに、絵葉書上のこの点において、私たちが互いに言い、行い、
  書き送ったことの、「引き取り手のない」〔納品を拒否された〕、
  ちっぽけな残滓にすぎない。」

そして、ぱらぱらとめくったページにこんな言葉が書いてあった。

  「もう思い出せない、だが、私が間違っていた。
  結局のところ―君のために、君に対して―私が自分に与えなかったものは、
  もともと私には委ねられていなかったのだ、という考えは。」

この本を、こんな風に、読みたい部分だけ、読んでいって、閉じる、
読んで閉じる、その繰り返しで、最終的に、もう一つの絵葉書Ⅰが私の中で
再構成されるとしたら、素敵なんじゃないか。
おそらく、そういう読み方はしないだろうと思ったけれど、
いつかはするかもしれないし、その素敵であるという雰囲気に吸い寄せられて、
4000円の本を思い切って買う。
いつ、文が終わるのか、文が終わってからも、何か分からなさが残る、
読んでいるだけで眠くなる、読んでいながらにして、読んでいない、
でも、徐々に蓄積していく物語の残滓が、きっと美しいものに違いない。
そう思ったのだった。
一週間のヴァカンスへ突入し、勇んで最寄のツタヤへ自転車を走らせる。
5枚で1000円というサービス、いつも、どうにかならないものかと思うものの、
一週間に3枚見たくとも、5枚借りる方が安いので、結局5枚借りることになる。
5枚借りたのだからと、一生懸命見てしまうのだった。
昨夜立て続けに鑑賞した映画の主人公の名字が、両方ともブラドックでびっくりする。
片方はダスティン・ホフマンで、もう片方はスカーレット・ヨハンソン。
どちらも若い。
去年の冬に那須で見て、冒頭15分でビデオデッキの故障で画面真っ暗になり、
続きを見られずにいた「卒業」。
私もホフマンのように卒業したいと歌ったけれど、
果たして、そんな感じでは全然ないのじゃないかと思う。
卒業したのに、昼間からプールで水にぷかぷか浮いて、知り合いのおばさんと
情事を重ねる。
で、知り合いのおばさんの娘が来たら、好きになっちゃって、結婚するのだと
言うのだけれど、これは「ノルウェイの森」みたいだと思ったのだった。
まさしく、不安定さを伴ったある特定の時代を物語る。
ガーファンクルたちの歌も、不安定な雰囲気をよく出していて、
なるほどと思ったのだった。
姉が大学受験の時に、父が姉に書いた手紙に、進路のことについて書きながら、
ガーファンクルたちの歌のことを例えに挙げていて、
内容そのものはほぼ忘れてしまったけれど、
その歌のことは印象に残っていて、まさにそういう、未来を選択する自由があるのに、
でも、選択するということはとても不安なことなのだということを説明するのには、
最もな歌なのかもしれないと今になって、思う。
そういう不安定さの時代を演じるホフマン、嫌らしい感じがしなくて、
やりすぎでもやらなさすぎでもなく、素敵だなと思う。
思い返してみると、今のホフマンも、嫌らしいところ、あんまりなくて、
結構、良い人なんじゃないかと思う。
あの時代、ガス・ヴァン・サントはとても気になる監督で、
今考えてみると、彼の映画が好きであっても、そのCDを買う必要は
どこにもなかったように思う。
確か、私がまだ10代で、たぶん、何かのフェアみたいな青空の下、
油絵で黄色い畑が描かれたCDを手に取って、胸が高鳴ったのを覚えている。
客観的に考えても、世の中に流通している量が明らかに少ないと思われる一枚。
音楽性の未完成は予見できたものの、私はその黄色いCDを携えて帰ってきた。
そしてその予想通り、ひどい歌だった。
そのひどい歌が約10年経ち、愛着のあるものに生まれ変わる。
ママ、キャント、ウォーオック!と歌うガスを、
突拍子もなく挿入されたアンド!のシャウトを、
ワンデーエエエーイと弛緩した余韻を、
愛らしく思う日がやって来るとは!
きっと、この歌を歌ったガスと私は今、同年代だぜーっつと思う。

鉛筆立てを作る

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牛乳パックを加工して、鉛筆立てを作った。

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キロワットのコラージュの余りでデコレーションする。
切ったけど貼り付けられなかったものを周りに並べてみた。

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たぶん、ダーウィンかロシアの作家みたいな人が
ぷーんと吹っ飛んだ感じにしてみた。
最近、はまり出したデコパージュの影響で、コラージュを貼った後に、
糊を塗り、その上にセメダインを塗って、ツヤツヤ感を出す。
ゴミ同様のものたちが、今、机の上で屹立している。
ぜひ末永く愛用したい。
また更新が空いてしまった。書かないでいるということもまた、
書くことに繋がるということは分かっていても、記しておかなければならないことが
ほぼ起こらない、身の上に降りかかって来ないことがある。
そして、書くことへの躊躇、ためらい、二の足を踏んで、千鳥足。
先週末、府中の家に戻ってきて、たくさんのことをした。
まず、台風の雨の中、5月くらいから買いたかったデジタル一眼レフを購入しに行く。
ネットで注文して店頭受け取りにして、なぜ駅から15分も歩いたのか。
遠かった。めくっていたズボンのすそが水で濡れた重みで垂れ下がってくる。
戸越のフォトカノンでやっている展示で写真を一枚出したので、
どうなったか見てきた。展示は15日(水)まで。
かほりさんや近さんには好評だったものの、ああいう写真はなかなか撮れるものでもないし、
被写体があそこまで満足げであることもなかなかなく、非常にすべてのチャンスが
合わさって撮れたものであること、私の夏を集約する、その瞬間であるにもかかわらず、
その後の気持ちが理由なく、そわそわしてしまうのはなぜなのだろうか。
それとは関係なしにそわそわして、眠れなくなりそうなので、
ラテン語の勉強を再開。またもや、サルウェーから始まる。
フランス語の読みかけの本もまた読み始めたけれど、
いつまで続くだろうか。


あいこぱ。フランス文学研究から大いなる逃亡後、あっちへふらふらこっちへふらふら。愛読書はブランショ、百閒、ヴォネガット。写真、 コラージュもやります。連絡はmail:aikopa@gmail.comまでお願いいたします。

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