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一冬かけて、やっとのこと、ジャック・デリダの絵葉書Ⅰを読み終える。
長かった。長く、そして、陰鬱だった。
もう陰鬱な冬もおしまいだ。
読み終えたことによる壮大な解放感をまとって、
私は年末に神保町の古本屋で購入したマラルメの詩集を読む。
タイトルは「イジチュールまたはエルベノンの狂気」。
水蒸気や丸底フラスコを思わせるタイトルだなとずっと思っていたのだけれど、
ちゃんとよく読めば、そんなことどこにも書いてない。
序文にはマラルメの理解者と思われる博士の文章がつけられていた。

 後日私は、錯綜を極めた手稿を判読することに、というよりむしろ
 開墾することに、慎重な探検家の歓喜に似た熱狂をもって、
 しがみつき、そしてなんとかその脈絡を捉え得たと信じている。

と書かれていた。
「開墾する」という言葉に、ぷっと笑う。
「開墾する」というと、もう鍬とか持って田畑に立っているイメージが
つきまとい、掘ることばかり、耕すことばかり考えてしまう。
そして、ページを持つ手に力が入った途端、プリッという気の抜けた音を上げて、
ページを背表紙にジョイントされている部分が裂けた。
ノーンと思いながら、黙々と読み進め、半分くらい来たところで、
ぱらぱらと最後までページをめくっていくと、奥付のマラルメの文字が
マルメラになっていた。
チャルメラみたいな響き。今度、スーパーに行ったら、チャルメラを買おう。

写真はパリの博物館で見たトウモロコシ。
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久しぶりに渋谷へ映画を見に行く。
アッバス・キアロスタミ監督の「トスカーナの贋作」。
キアロスタミが初めて国外(イタリア)でメガホンを取った作品で、
ジュリエット・ビノシュが主演。旅先で夫婦に間違われた男女の、
不思議な掛け合いが絡まり合い、偽と真の狭間で心情が揺れ動く。
トスカーナの一地方がまるでイランの大地のように見えた。
映画館のロビーに貼りつけられていた新聞の切り抜きには、
キアロスタミ初のラブストーリーだと書かれていたけれど、
「オリーブの林をぬけて」はイラン特有の究極のラブストーリーだと
認知していた私
としては、初なのか?という気持ちと、
イランを抜け出たキアロスタミはどんな映画を撮るんだろうという好奇心が、
今の季節にピタッと来て、遠のいていた足を映画館へ戻す。
途中、主演の二人の掛け合いが、変、変、変~!と思ってたら、
笑い声が聞こえ、そうだよね!笑っていいとこだよね!と
心強い気持ちになる。
暗い部屋で一人でじっと見ていた時には、キアロスタミの映画、可笑しいなんて
思ったことなかったんだということに気づいた。
写真は、よくよく見てみたら、確かスペインで、ハデハデな靴下を
買ったのではないかと思う店。日本に進出したようである。
3/25に堂々オープン。また靴下を買いに行こう。
ワンフレーズの最後まで気をしっかりと持たないと、
危うく違うことを言いそうになる。を通り越して、
全然違うことを言っているということが、最近、あった。

母は最近、私の中学時代のクラスメートのF君のお母さんと
電話をしたそうで、そのF君のお母さんの話から、
F君の話にもなり、あれ?じゃあ、F君のお父さんは何してるの?
と聞くと、「官庁でしょ」と言うので、
私は「えっ?官庁って、かすみがうら?」と聞いてしまう。
霞ヶ浦は、茨城県南部に位置する日本で二番目に大きい湖の名前だ。
ちなみにキロワットの動画で角ちゃんと踊ったのは、
霞ヶ浦運動公園。

この前、かほりさんの写真展に遊びに行った時も、
アボカドの話になって、アボカドの素晴らしさを語ろうとして、
「アボカドは、森のたまごですからね」と言ってしまう。
森のたまごは、卵だ。アボカドなんかじゃない。
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一週間迷った挙句、岩波文庫のオクタビオ・パス「弓と竪琴」を買う。
大学3年次の夏休みのレポートでも、彼がシュルレアリスムについて書いた本を
取り上げたので、そもそも知らない人ではなかった。
ただ、彼の代表作である「弓と竪琴」について、ずっと私は詩集だと思っていた。
この人は弓と竪琴でもって、闘うのだ、と。
そのイメージの描く、甘美な曲線がとても素敵なのだろうと予想していた。
けれど、実際は、壮大な詩論で、岩波文庫でありながら、
2センチ近い分厚さを持っていたので、躊躇してしまう。
私は今、壮大な詩論を読むような気分ではない、と。
けれど、角ちゃんとの朗読会のためのダロウェイ夫人を買いに行った時に、
私は見てしまったのだ。
レジカウンターの後ろに位置した棚に、取り置きされた「弓と竪琴」を。
この本がちょうど発売されたばかりであるということ、そして、
取り置きされる存在としての「弓と竪琴」を目にしたら、
とても気になってしまい、私は手に取り、よく立ち読みをしようという気持ちに至る。
そこには、こう書いてあった。

ポエジーは認識、救済、力、放棄である。
世界を変えうる作用としての詩的行為は、本質的に革命的なものであり、
また、精神的運動なるがゆえに内的解放の一方法でもある。
ポエジーはこの世界を啓示し、さらにもうひとつの世界を創造する。

読み進めていくと、前書きにこう書いてある。

わたしは詩を書き始めて以来、それがなすに値することであろうか、
と自問してきた―人生からポエジーを引き出すより、
人生をポエジーに変える方がよいのではなかろうか?
そしてポエジーは、詩(ポエマ)の創造よりはむしろ、詩的瞬間の創造を、
それ本来の目的として持つことはできないのだろうか?

これについて、私が今、全くその通りだと同意するかどうかは別にして、
とても素敵な文章だ、と。というメールを角ちゃんに送って、
私はパスの顔写真まで添付したのだけれど、
本当は弓のような、竪琴のような、甘美な曲線を描いている写真を
添付するべきだったかもしれない。と思う。
例えば、井之頭自然文化園で撮ってきた水槽の水草のような。
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写真は今始まりつつある「朗読会」を催したカフェにて。
左よりコーヒーカップ、砂糖入れ、水、紙ナプキンフォルダー。

先週は行き違い週間にもかかわらず、角ちゃんと二夜連続会う。
私は角ちゃんの代わりに出勤するバイトへ行っていた。
金曜に残念な未来の希望の残り滓みたいな話をし、
翌朝、とても暗い気持ちで目覚めたものの、
一週間私が書き溜めたメモを引き出しから発見した角ちゃんが、
今夜、初台へ行きたく思うとノリノリでメールをくれたので、
急遽、閉館間際に滑り込みで、裕さんの植物や誕生日会を見てきた。
とてつもなく長い岩の風景の壁画も隣接されていて、
常設展をスキップした私たちは反対方向から見ていたのだが、
そのことに気づいたのが端まで行ったときで、端まで行って、もしや、
ここが始まりなのではないかと気づいたのである。
でも、どちらが始まりであったとしても、その壁画は
360°以上の岩山のパノラマで、戻って来ても、戻って来ても、
まだ風景が更新されていくような感覚がした。
始めから再生しても、後ろから再生しても、同じような音楽が作れるのではないか
とピンと来て、そっちの方の話になり、昨日、PDのインストールをする。
結局、全然、全く分からないのだけれども、
そういうことから始まって、徐々に分かってくるものがあり、
とても楽しい。焦らずに、情報収集し、再び始まるであろう青春の
1ページにまず、「1」と記入するところから始める。


あいこぱ。フランス文学研究から大いなる逃亡後、あっちへふらふらこっちへふらふら。愛読書はブランショ、百閒、ヴォネガット。写真、 コラージュもやります。連絡はmail:aikopa@gmail.comまでお願いいたします。

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