私はできれば君に、君にまで到達したい、
私の唯一の運命よ、そして私は走る、走る、そして私は
ころんでばかりいる、一歩ごとに、というのも、私たちの
はるか以前に、あまりにも早く、(・・・・・・)があっただろうから
とか、
私のIの上に点を打つことをもう君が私に許してくれなくなるときには、
空が私の頭上に落ちてくるだろう、そしてその落下には際限がなく、
私は別の方向に横たわることになるだろう
と、ジャック・デリダが「絵葉書Ⅰ」の中で書いている。
この転倒するイメージがしばしば登場するのだけれど、
ちょっと突然倒れる雰囲気が可笑しい。演劇的だ。と思った。
おそらく、物理的因果関係なしに、彼は転倒していて、
もちろん、その転倒も彼の頭の中で行われている転倒でしかない
のかもしれないけれど、その文章を読んでいる私には、
いきなり「転倒」したように思われ、その転倒がすごく、
印象的で、人は普通、何かにつまずいたり、足がもつれたり、
気を失ったり、何らかの大きなものに突然、ぶつかられたり、
そういうわけで転倒しているわけなのだけれど、
デリダは違う。
Iの上に点が打てなくなっただけで、立っていられなくなる。
突然、襲い掛かる「転倒」、そのダンスのようなイメージに
魅せられる。
思い返してみると、角ちゃんが考案した、何かの攻撃を
受け止めながら、後ろへ進んでいくダンスも、
転倒しそうになる場面があり、動きがゆったりとしながらも、
ダイナミックで魅力的だった。
転倒、底知れない魅力。
何げなく眺めていたBSワールドニュースで、こんなことを言っていた。
エジプトの博物館は創立100年を祝うために、
7年くらい前から修復工事をしていて、ようやく完了したらしいのだけれど、
創立100年を祝うのが100年目であっても、105年目であっても、
どちらでも良いんですというようなことを言っていて、
すごいと思った。
5年の歳月など、エジプトでは大したものではないのだ。
105年目に祝うことについて、さらっと言えてしまう、
一見、怠惰とも見える、そのゆるりとした空気、
魅力的だなと思う。
そして、来年のカレンダーにまだ着手できずにいて、
おそらく作り始めてしまえば、すぐに完成しそうだと思うものの、
元旦に間に合うだろうかと、もそろもそろ思う。
でも、それでも、着実に立ち上がって、前進しているように思うのだ。
もう、ほふくではない。
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