January 26, 2006
忘却のムームームー、明日はどっちだ。
忘却の文学史。という本を読んでいる。
色々な忘却のエピソードがあるのだが、
コウノトリに変身したアラブ系の王様と大臣が、
笑っちゃって、ムターボルという呪文を忘れて、
人間に戻れずに、ムームームーと言っている。
というところにやられた。
もうムームームーの先には何もない。
忘却というのか、思考のすべてがストップする。
そんな言葉。ムームームー。ム我の境地。
ムが何だか違うものに見えてきた。
パワーパフガールズの博士?の鼻。
こんな風に尖っていたなぁ。
January 22, 2006
雪の日の浜は
いつもより何もない。
イン・ザ・スープのブシェミを困らせるフィリップ・シーモアが
死んだのもこんな雪の浜辺だっただろうかとか、
アラン・ロブ=グリエの『迷路のなかで』の四ツ辻?もこんな風に
雪が降っているのだろうかと思いながら、ただ歩いて、
ただ見ていた。歌は歌っていない。
January 18, 2006
おねいちゃんも、とぅりゃとぅりゃ言い出した
市ヶ谷へ。ただぼんやりと歩く。
何かを考えなければならないのかもしれないし、
何も考えたくないからかもしれない。ただ歩いた。
色々あって、市ヶ谷駅のホームでたたずむ。
朝は、トゥリャトゥリャとぅりゃとぅりゃとぅりゃねむる〜などと
歌っていたのに、しかも、昔作詞作曲したHitec-C?の歌の
替え歌までして、浮かれていたのに、もう夜には浮かれ底だ。
ただ何だか、朝見た色鮮やかな夢に惹きつけられていく
ような気持ちにもなった。
そうだ。ジャッキー・チェンVSオースティン・パワーズ。
そんな映画が見たい。
January 15, 2006
陥没したA。もう這い上がりはしないのか。
最近はというと、先週末、東京オペラシティのアートギャラリーの
展示を見に行こうと思ったら、フライングだった。
カスバの男というモロッコの日記の本を買って帰る。
フェリーニづくし。道。カビリアの夜。
コーエン兄弟のファーゴの宣伝コピーが「人はおかしくてかなしい」だったけど、
まさしくその言葉が相応しい映画を撮る。
あと、息子の部屋を見た。あれは良い。ナンニ・モレッティの、
ジェニファー・ビールスを追っかけたという親愛なる日記も見たくなった。
半年前から読みたかったサーチエンジン・システムクラッシュという、
宮沢章夫の小説を読む。芥川賞候補にもなった作品。
ところどころ、彼の戯曲で読んだような、ちぐはぐで可笑しい会話が
繰り広げられる。死んでいるか生きているか分からない、そんな曖昧さに
耐えられるかという言葉と赤いチョークの線が池袋の夜を徘徊する。
ブランショの「謎の男トマ」の再読。
もしかしたら、以前読んだ版とは違うのかもしれない。
ところどころ記憶はあるが、ほとんど記憶がない。おかしい。
トマは悶え苦しんで、ゴキブリのように、ニシキヘビのように、
エリマキトカゲのように、倒れ込んで身をくねらせる。
ワタリウム美術館のハンモックで少し酔ってしまった。
シャイン旅行に行ったおねいちゃんが、朝、丸くなって、
行きたくないよう、行きたくないようと呻いていたのは、
本当にかわいかった。
January 6, 2006
オラファー・エリアソンの光とか影とかの展示
原美術館のオラファー・エリアソンの展示を見てきた。
真っ暗な部屋に、スクリーンに映し出された木々の風景があって、
でも所々ぼんやりとピントがぼけていて、私は初め、これは、今に
動き出すんじゃないか。と思って見ていたものだから、
とても怖かった。何かそこに映し出された風景が、私の視覚を通して
何か他の怖いようなものに変化するように感じたからだった。
その作品は、カメラ・オプスキューラというカメラの原理から
着想されたものなのだが、スクリーンに窓の風景が上下逆さに映されていて、
空が下にあったものだから、何か違和感を感じたのかもしれない。
でも、その仕組みが知らされる前の、その感情の高ぶりというか、
そういう得体の知れない気持ちを抱くこと、それが印象的だった。
あのスクリーンの奥の窓を覗くまでの、あの何とも言えない時間を
今日は一日中反芻していたように思う。
帰りに、おねいちゃんの寝るまで用の防寒具を方々探し回って、
結局リバーシブルのフリースを買う。できれば手頃な値段のガウンを
買いたかった。途中、カバとかゾウとかトリとかそういう動物が、
ちっちゃく行列を成しているパジャマを買った。どうやら安売り?
新年は明けたけれど、中国ではまだ正月は来ていない。