January 27, 2005

リバプールの夜

今日も三時に起きて映画を見た。スリー・ビジネスマン。
ほとんどがアレックス・コックスとミゲル・サンドヴァル扮する
ビジネスマンの珍道中を描いている。
中年による勢いのない、ゆらりとした不思議なロードムービーだ。
明らかにリバプールじゃないところで、リバプールにいると思っている二人がまた、
夢のような光景を作り出す。そこには無限に広がるリバプールだ。
時間と空間の錯綜が心地良い。
アレックス・コックスはまさにミゲル・サンドヴァルの魅力を余すところなく伝えている。
何というかコーエン兄弟の映画におけるジョン・タトゥーロといった感じか。
あ、でもアダム・サンドラーが実は大富豪の息子だったっていう映画(タイトル、忘れた)で
タトゥーロが演じてた足フェチの執事も極めて良かったと思うのだった。

とにかくアレックス・コックス連夜も終わり、普通に眠る日々がやってくる。はずだ。

投稿者 aikopa : 11:25 PM

January 25, 2005

深夜にむくむくと起きて映画を見る日々

昨日、今日と私は、3時から4時に起床し、のそのそと階段を下り、
もそもそ映画を見ていた。
アレックス・コックス監督の「デス・コンパス」と「ストレート・トゥ・ヘル」。
どっちも邦題を日本語にしないのは、死と方位磁針とか、
地獄まで一直線とかこれはどうかとというタイトルになるからだと思う。
その前にシド・アンド・ナンシーも見ていたので、今月はアレックス・コックスづくしだ。
彼の映画は、展開が心地良いテンポを持って営まれている。
ストレート・トゥ・ヘルは、もうそこに存在する人々のわいわい感が
フレームを超えてやってくる感じだった。むぎゅっとわいわい。
ストーリーはB級ウェスタンだと言ってしまえば、そうなのだが、
何とも憎めない。コックス監督作品常連のミゲル・サンドヴァルが
また何とも言えない存在感だ。
たぶん、アレックス・コックスはミゲル・サンドヴァルの困った時の
リアクションが気に入っているのだと思う。
ステレオタイプ的なリアクションでありながら、どこか愛すべき困りッぷり。
あさっての朝も、こうして起きて、映画を見て、また眠る生活を送るんだろうか。

投稿者 aikopa : 5:17 PM

January 24, 2005

並べる日々

もう使われなくなった引き出しは、その人の思想を端的に表している。
正月に帰って来たおねいちゃんに、プラモデルとかビデオとか
そういうごちゃごちゃしたものを片付けたいと言ったら、
勝手にやってくれと言われた。
で今日決行したのだ。

soldierspack-clair.JPG soldier1-clair.JPG

写真は引き出しから出て来て、
これは捨てるのかな?と思ったが(写真左)、並べてるうちにこのソルジャーたちの
淡々とした盛り上がりの渦に私も飲み込まれてしまったのだ。(写真右)
しかも途中で一部倒れた。面倒になりそのままで写真に撮る。
姉が終始持っている、複数性への問い、ものの考え方すべてを
見出だそうとすればできそうな群れ。
もうしばらく引き出しの中でこのまま眠ってもらうことにした。
今度はおねいちゃんと並べたい。というか、おねいちゃんが
こうやって並べたかったんだと思う。

soldier-ya.jpg

やー。って感じのソルジャー。

投稿者 aikopa : 1:53 PM

January 23, 2005

宙に浮かんだバイオリンは、吊された男のようだった

携帯を機種変したいと思うようになりました。
で、店頭で色々いじってみるのですが、どれも壊れそうです。
なぜかというと、今の携帯は帰ってきて、
布団の上に携帯を放り投げています。
最近の私は乱暴になってしまったので、この放り投げに耐えられる
頑丈な携帯が欲しいです。

今日は浦和に行って、大勢の人々に混じって、紙を千切ってきました。
それから、緑色の風船を一生懸命吹きました。
私は、以前入試の時に「はじめ」という言葉が発せられると同時に、
一斉に響き渡る入試問題冊子のページをめくる音に、感動したことがありました。
そういう音、そういう視点をアートに向かわせようとした動きもあったようです。
でも、ただその作品を作るために発せられる音は、私には何だか
どことなく人工的で、そういう人工的に作られた偶然を楽しむ会っていうのは、
どうかと思いました。あそこで誰かその作品に対して、罵声を浴びせたりそこまで
いかなくとも、それは違うとかそういう反応の多様性が抹殺されていたように
私には感じられました。だから、不自然で違和感を感じたのだと思いました。
フルクサスがやろうとした、非常に変化に富んでいて、しかも鑑賞者に
行動させることでメッセージを伝えるという、その考え、フルクサスが選んだ方法は、
理解できなくもないけど、それを「残す」ということはもっとずっと難しいのではないか。
と思いました。

投稿者 aikopa : 9:05 PM

January 21, 2005

ひとつひとつの指が

yume-pied.JPG

もぞもぞできるって素晴らしい。
五本指靴下は履くと楽しくなる靴下だ。
特に指ひとつひとつの色が違うものは、
名前をつけたくなるくらい、一本一本に愛着が沸く。
足をもぞもぞすると、何か動物のようだ。
くまくまにもぞもぞ見せたら、何かしっぽみたいだと言われた。
しっぽ!うほ!こんなしっぽ、あったら良いのになぁと思った。
角ちゃんには、偶然行ったアヌシーでやっていた見知らぬカップルの
結婚式に出たのに寝てしまって、一緒にいた友だちに怒られた話をした。
笑ってくれたが、眠気を抑えられないのは、何だか理由もなく走り出してしまう
小学生のようではないかと思えてならなかった。
あー、きっと大人になるってことは、眠気が抑えられて、理由もなく
走り出さなくなることなんじゃないか。いやー、絶対ムリだ。

投稿者 aikopa : 10:34 PM

January 19, 2005

五本指靴下に馳せる想い

帰りに、五本指の靴下を買い、ウホウホになる。
以前電車の中で、五本指の靴下がいかに気持ち良いかについて、
語っている女の子がいて、その子の話が気になっていたのだった。
私の波長とその話の波長がぴったりと寄り添うようになった時、
こんなことが起こるような気がする。
きっかけでしかないのだが、その人の話は私に気持ち良い五本指靴下の
想像体験をさせたのだと思う。本以外にも、想像して体験することはあるものだ。

今日はアテネフランセに行き、午後何だか西日の眩しいテーブルで、
ぽつぽつと勉強した。小学校の時の友人からメール。
うーんうんうんと勉強しながら、返信を書いた。
いつの間にか4時になり、角ちゃんがやって来た。
角ちゃんとつらつらと話していたら、6時になってしまった。
それから帰宅。ねむいねむい。
欠伸をして涙が止まらなくなった。

投稿者 aikopa : 10:37 PM

January 17, 2005

みんな、何を着ていくんだろうか。

今日はくまくまと恵比寿に行った。
フランス料理をもぐもぐ。
小羊に寄り添った果てしないクスクスが、
大量のボソボソ感で腹を満たす。
クスクスを馬鹿にしたが、それに逆襲された気分だ。

帰りの電車は暑くて、気が気じゃなかった。
眠ったり、本を読んだり、ただ過ぎ去るのを待つ。

家に帰り、ぐらぐらと揺さぶられたのは、同窓会だ。
小学校の同窓会がある。ちなみに私は4校の小学校に在籍した。
かろうじて学校の名前は覚えているが、先生の名前も
大半の友だちの名前も忘れてしまった。
しかも、私はアンチ・セレモニー派でありたいと思っている。
というか面倒臭いのだ。七五三から始まって、すべての儀式という儀式を
いやだなぁという気持ちを抱きながら、やり過ごしてきた。
しかも思い出すという作業自体が、無理を強いられる。
かつて一度だけ同窓会に行ったことがある。
過去の記憶をそのままの鮮明さで反復しようとしたのが、
まずかった。ただそれを求めた悲しさだけがあった気がする。
私が忘れられているのは構わないが、
向こうのことを忘れてしまっているという事実が、
コミュニケーションの複雑化を生む。
でも、先生が来るらしいのだ。でも、先生の名前もよく覚えてない。
今だからこそ、分かったこと、今になっても分からないこと色々ある。
それを考えるための場かもしれないが、自分のあまりの記憶の不確かさに
自信喪失である。
私の中で同窓会の位置づけが曖昧なのがいけないのだろうか。

行く気はなかったのだが、おねいちゃんが卒業式に行くというので、
私も行くことにした。
メールを読んだときは、おねいちゃんだけが行くのか?と一瞬思った。
よくよく考えてみれば、受験の時も入学の時もついてきたのは、
おねいちゃんだ。ということを思い出した。

投稿者 aikopa : 11:25 PM

January 16, 2005

週末の過ごし方を見直そうと思った。

私が撮った写真の数々には、私の「不在」がある。
その「不在」こそが私なのだ。と思った。その「不在」の視点が
マクロの私を形成する。ゼロから無限大の車両。ガタンガタン。
そこには、まさしく私が経験しなかった時間が切り取られているように
思われた。つまり、これが「失われた時」なのかもしれない。

最近、反復についての本を読んでいる。
卒論で反復についてやったからだ。あー、書く前に読めば良かった。
でも、いずれ読むべき本だったに違いないと思うことにした。

ところで、週末の過ごし方を見直すべきだと思う日々。
以下が今週末の歩みである。
土曜、午前寝る。午後、ニューヨークの恋人、見る。
夕方ネット。夜、トゥルーマン・ショー後半から見る。
日曜、午前、アコーディオンできらきらぼしを弾く。他に、
かえるのうたとエーデルワイス。シャープやフラットの音は出ない。
そして、本読む。くたんくたんとしていたら、昼になった。
午後、うず潮を途中から見る。カトリーヌ・ドヌーヴが若いのと、
おお、モンタン。前半から見たかった。寝る。
夕方起きて、アテネフランセの宿題。10分で終了。
ネット。今に至る。
本当に何もやることがない気分だった。
テスト勉強はノートを返してもらい忘れて、できなかった。
でもノートがあってもする気はなかった。まぁ、いいや。
何かすることがある時間は幸せなんじゃないか。
よく何もすることがないのは幸せだとか言うけど。

投稿者 aikopa : 6:06 PM

January 15, 2005

昨夜は酔っぱらっていた

まず、シャーペンをペンケースにしまってない私。
定期とか携帯と仲良く脇のポケットから発見。
そんなとこにしまった記憶はない。
家に帰り、風呂で体を洗って泡がついているうちに浴槽に入ってしまった。
携帯のデータフォルダにむやみやたらに鍋の写真が写っている。
鍋のふたが開いたり閉まったり。

昨日はゼミの飲み会だった。
楽しげな夜を過ごした。
でも、世界をちゃんと受容するためには、酔っぱらうことがいかに
障害になっているか。私が常日頃、いかに世界を見よう見ようと
しているか。そんなことを痛感させられる。

投稿者 aikopa : 10:14 AM

January 12, 2005

ストライプについて考えた。

おねいちゃんは、ホワイト・ストライプスが好きだ。最近はどうか知らないが、
以前好きだ好きだと言っていた。
で、今になってようやくホワイト・ストライプスについて調べてみたのは、
他でもないコーヒー&シガレッツに二人が出てるからだ。
そこで、姉弟ユニットということを知り驚嘆し、また姉弟ユニットでありながら、
絶えず夫婦であったんじゃないかという噂が流れるというのを読んで、
驚愕した。あるいはそれと同様の感情を抱いた。といったところか。

今日、アテネフランセの先生、寝癖立ってた。前と後ろにぴょぴょんと。
何だかあわててたのかなぁ。と思った。
帰りの電車の中でふと思った。私がホラー映画を見ないのは、
私の中にまだ恐怖という感情があるからなのだ。
外から吸収しなくても自給自足でむくむくと広がる恐怖。
とかなんとか。
でも、いや待てよ。そんなに怖がってないぞ。とか。
ただ、扉が開くたびに極寒で、もう仕方なかった。
帰ってから、文化解体の想像力を読み終える。
人類学については良く分からないが、見るということはきっと、
自分のことを忘れ、その対象に没頭するほど愛するということに、
どこからか繋がっていくのだろうと思った。
レリスという人の「人は主観性を通じて客観性に到達する」という
言葉に、おうおう、それだ。と思った。
昔、私が説明出来なかったことの切れ端がそこには
隠れているような気がしたのだ。

投稿者 aikopa : 9:13 PM
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January 11, 2005 5:23 PM 空飛ぶピザ
January 9, 2005 9:00 PM また私はぐうぐう眠っている