April 30, 2006

操られているのはラクダではなく、

ドバイから帰ってきたおねいちゃんは、
たろ吉買ったよ〜と言う。たろ吉は去年の誕生日にいただいた
プレゼントの腕時計に描かれたフタコブラクダのことだ。
サイズを聞いたら、膝下くらいで、糸を引っ張って操れるらしい。
と角ちゃんに話したら、妙な目つきをして止まっていた。

私はというと、映画を見ていた。
映画を借りないでいたので、チョイスが鈍る気がしたけれど、
そうでもなかった。私は映画を見たかったのだと思う。
「危険な関係」のマルコヴィッチがすごい。
すごい気持ち悪い。あそこまで気持ち悪いと、何だか感覚が麻痺するのか、
少しマルコヴィッチの良さが分かったような気がした。
足をだらんと広げて、グレン・クロースを誘惑するマルコヴィッチ。
可笑しなくらいマルコヴィッチが女性を誘惑する。
この気持ち悪さは、マルコヴィッチの穴のマルコヴィッチとも
また違った、正統派マルコヴィッチに違いないと思った。
マルコヴィッチと対決することになる間抜けなキアヌ・リーブスもたまらない。
たまらないくらい、何でそこにいるのか分からない感じの彼がたまらない。

そして、ライフ・アクアティック。
ビル・マーレー。潜水艦。ボサノバ風のデヴィッド・ボウイに乗せて。
何だろう。ウェス・アンダーソンの映画、ロイヤル・テネンバウムズ?は、
悲しかった。笑えるのかと思って借りたのに、悲しかった。
で、こっちは笑いと悲しいところがビル・マーレーの哀愁と相まって、
絶妙なバランスで紡がれていて、良いと思った。
ビル・マーレー、近年、本当に役に恵まれてるなぁと思う。
ロスト・イン・トランスレーションしかり、ライフ・アクアティックしかり。
そして、おそらくブロークン・フラワーズもそうなんだと思う。

投稿者 aikopa : 10:38 PM

April 27, 2006

悲しげな数字

060427numbers.jpg

何だか無性にこの数字を見ていたら、悲しくなった。
おそらく同じ数字が規則正しく並んでいたからだと思う。

今日はおそらく町で一番の薄着だったと思う。
すれ違う人が皆、ジャケットを着ていた。
みんな、天気予報をちゃんと聞いているのだ。
私も聞いていた。聞いていたけれど、分からなかったのだ。
昨日、階段を上がる際に、じっとりとした熱気、うすら汗、
何だかそういう湿気のある世界はきっと美しいのだけれど、
脱いだり着たりめんどくさいと思ったのだった。
それで、今日はというと、アテネフランセへ行き、
午後は公務員試験の勉強をしに行き、ハイデガーとか
実存主義とか聞きながら、かくーんと眠った。
トイレの鏡で目の下にクマができているのに気づいた。
睡眠不足ではないはずなのに、クマができているのは、あれだ。
やつれてる。おそらく、私が自覚している以上に、疲れてる人に見えた。
そして何回も、つまずいた。いや、本当に疲れているのかもしれない。
と思った。

投稿者 aikopa : 9:40 PM

April 25, 2006

ナイポールの小説を読んでいる

V・S・ナイポールの小説の主人公は、
みんな自分の思い通りにはならなくて、
僕の人生はまだ始まっていないと思っていて、
放浪するんだけど、でもどうにもならなくて、
そういうのが良いと思った。
そのナイポールの『ミゲル・ストリート』では、
名前のないモノを作っている
自称大工のポポさんがいて、いつも、
かんなで木を削ったりしている。でも出来上がるものはみんな、
何と言ったら良いのか分からないものばかり。
おそらく、詩的な人生には名前のないモノ、
名づけようのないものが重要なのであり、必要なのだと思った。
何のためでもなく存在すること。
あってもなくても一緒なのに、存在しているモノ。
そして、それを説明するのに、明確で簡潔な単語はなくて、
しどろもどろになってしまう。おそらく、それが詩的な空間であり、
時間なのだと思った。

投稿者 aikopa : 9:02 PM

April 23, 2006

本当のむーむ、そして何十億光年の彼方

姉の結婚式やら何やらで、本当に忙しかった。
何十億光年が過ぎたようなのに、私の鼻風邪は治っていない。
ぐすぐす言っている。
式というもの自体は、おそらくあまり好きではないのだと思う。
いつもと違っていて、どことなく不自然で、
一歩ずつ一時停止をしながら、ぎこちなく歩いてくる、
ただそれだけで私は可笑しいし、本当のむーむについて、
牧師さんが語ってくれれば良いのにとか思っていた。
おねいちゃんがもう私の視力では、はっきりとは見えなくて、
遠くの方にぼんやりとしていた。
こんな遠くから、おねいちゃんを見ることなんて、
本当になかった。なかったと思う。
披露宴が始まって、ぱぱこが口をへの字にして泣きそうになっていたけど、
しばらくしたら、可笑しな顔をしていた。
上司のスピーチがなかなか終わらなかったからだろうか。
その後は、ただ目の前にやってくる皿を平らげているうちに終わりになった。
夜は少し蒸したので、ちょいっと足をふとんから出して眠った。
ごーごーという音がして、車の音かと思って起きてみたら、
ままことぱぱこのいびきが鳴り響いていた。お決まりのパターン。

投稿者 aikopa : 9:29 PM

April 15, 2006

雑炊は私が二番目に好きじゃない米料理。

今朝、おねいちゃんが目覚ましより早く目が覚めたので、
妙にやる気で、いきなりタマネギをみじん切りしていた。
それで、何作るの?と聞くと、
雑炊だと言う。
雑炊は私が二番目に・・・と言ったところで、
おねいちゃんは、雑炊じゃないや。えーと、あれ、
何て言うんだっけ、名前忘れた。と言う。
あ、・・・リゾット?と私。
そう。それ。とおねいちゃん。
自分が今から作ろうとしてるものの名前を忘れるなんて、
おかしいよ。と言ったら、寝ぼけてるからと弁解していた。
私は、そんな寝ぼけたおねいちゃんがいる空間が
おそらく好きで好きでたまらない。

そして近況。
ネコ先生の授業。一応取ってみたのだけれど、
間違いを指摘したら、アイコセンセ〜と言われて、凹む。
どういう開き直りだか知らないけれど、先生に先生と呼ばれるほど、
寂しいことはない。そう思ったら、余計に悲しくなった。
その後、ぼんやり、「何事もなかったかのように」という
フレーズで始まる詩の次のフレーズを思い出そうとしたけれど、
結局思い出せなかった。
悲しくなると途端に眠くなり、そして、ぐぅという音が鼻から漏れるのだった。
ここら辺は、本当に昔と変わってない。変わらない副交感神経の働き。

投稿者 aikopa : 10:01 PM

April 12, 2006

哀愁と地下室のクシュクシュ

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下北沢の地下食堂にて、蛙の唐揚げなどをつまみ、
それから、ナイロン100℃のカラフルメリィでオハヨを見に行く。
以前、ビデオで見たことがある作品の再演だった。
そして、おそらくこれが最後になるだろうと思いながら、
なぜなら、もうナイロン100℃を私は見過ぎたし、
もう見に行かなくても良い、この作品なら、
そういうけじめを付けられるのじゃないか。
そう思ったからだった。
けれど、私はすべてのナイロン100℃の作品を見て、
言っているわけではないし、これからすべてを見る気もないので、
やはり、これが最後になるだろう、私の中で、こういう物語が
語られた90年代は去りつつあるのだろう。そう感じた。
哀愁である。懐かしい。懐かしいギャグ。
けれど、再演が重ねられることによって、軽妙なテンポに
深みが出る。以前は、どうも思わなかったフレーズに、
くたんとなる。忘れていて、思い出す。
突如話の最後に放たれた接続詞「ところが」、
クシュクシュクシュと耳元で囁きながら起こそうとする、
それで目覚める前にクシュクシュした夢を見たというところは、
本当に好きだった。それは今でも好きであり、
これからもおそらく好きである。
軽妙なテンポで、全編を笑いで突き抜けても、
けれど哀愁が残り、そういうものはおそらく巣鴨の次で
たくさんの人が降りて、でも自分は降りなくて、
このまま自分はどこへ、行ってしまうんだろう、
そう思いながら、知らぬ間にどこか懐かしい見知らぬ土地に、
辿り着いてしまうのだろうと思う。

投稿者 aikopa : 11:33 PM

April 11, 2006

私はどんどん楽になる

先週は忙しく、疲労がミルフィーユ状に積み重なり、
思考も凹んだ状態になった時に、おねいちゃんは、
デタラメにも、これからどんどん楽になる。という
アドバイスをしてくれた。
疲労すると、細かいことが気にならなくなるからだという。
確かに私はどんどん楽になりつつあるのかもしれない。
むしろ、楽というよりRAKUという感じだ。
こういう言葉はローマ字が似合う。
ローマ字はどことなくデタラメを増幅するのではないか。

あ、そうだ。色々あった。
立食いの映画を見に行った。すごいプロモーション。
まさかエレベーターの扉に印刷されるほどだとは思わなかった。
立ち見も出るほどの賑わいなのに、ある一地域の民によってしか、
笑いが沸き起こらない。マニアックな笑い。そして、無限に続く独白と立食いの歴史。
あの軽妙なテンポは亀に乗ってどこかへ行ってしまったのだろうか。

投稿者 aikopa : 5:56 PM

April 2, 2006

雨の日の桜は

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良い感じに散りだしている。
どうしてこんな気分になってしまったのか、よく分からないけれど、
おそらく知人の写真展に行き、けれど、その人が作品のためにしか
もう写真を撮ったりしないという話を聞き、私はその白い壁に宙吊りに
された写真群に対して私が感じた、何か違和感というか、
何の感情も抱かなかったことについて、申し訳なく感じていた私の気持ちを、
ずんずんと地底の方へと進めさせたのだった。
世界にその作品を成立させた際に、少なくとも一人はその作品を
望んだ形で現れるのが、良いのじゃないか。ちがうのか。
と思ったのだった。

投稿者 aikopa : 7:50 PM
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