April 12, 2006

哀愁と地下室のクシュクシュ

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下北沢の地下食堂にて、蛙の唐揚げなどをつまみ、
それから、ナイロン100℃のカラフルメリィでオハヨを見に行く。
以前、ビデオで見たことがある作品の再演だった。
そして、おそらくこれが最後になるだろうと思いながら、
なぜなら、もうナイロン100℃を私は見過ぎたし、
もう見に行かなくても良い、この作品なら、
そういうけじめを付けられるのじゃないか。
そう思ったからだった。
けれど、私はすべてのナイロン100℃の作品を見て、
言っているわけではないし、これからすべてを見る気もないので、
やはり、これが最後になるだろう、私の中で、こういう物語が
語られた90年代は去りつつあるのだろう。そう感じた。
哀愁である。懐かしい。懐かしいギャグ。
けれど、再演が重ねられることによって、軽妙なテンポに
深みが出る。以前は、どうも思わなかったフレーズに、
くたんとなる。忘れていて、思い出す。
突如話の最後に放たれた接続詞「ところが」、
クシュクシュクシュと耳元で囁きながら起こそうとする、
それで目覚める前にクシュクシュした夢を見たというところは、
本当に好きだった。それは今でも好きであり、
これからもおそらく好きである。
軽妙なテンポで、全編を笑いで突き抜けても、
けれど哀愁が残り、そういうものはおそらく巣鴨の次で
たくさんの人が降りて、でも自分は降りなくて、
このまま自分はどこへ、行ってしまうんだろう、
そう思いながら、知らぬ間にどこか懐かしい見知らぬ土地に、
辿り着いてしまうのだろうと思う。

投稿者 aikopa : April 12, 2006 11:33 PM